スポットライトは今ここに

東京でしずかに息をしています

職種に上下階級は存在しない

飲食店で正社員として働いていた時のことです。

私が配属された店舗はビジネス街にありました。
ランチタイムには大勢の会社員さんがランチを食べに来ます。
私はこれまでにオフィスで働いたことがないので、スーツとか、オフィスカジュアルをぴしっと着こなした大人たちは完全に異世界の人間のように感じます。

定食1食1,000円前後です。
個人的な感想として、この価格帯のランチはちょっと高いので毎日は通えないな~と思います。
サラリーマンのランチ代として考えても、ちょっと高い。でも、常連のビジネスマンがたくさんいました。

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なにに対してお金をたくさん使うかの比重は、人によってちがいますよね。
旅行が好き、インテリアにこだわりがある、ゲームが趣味、オーガニック食志向、アイドルの握手会に定期的に行ったり、美容整形のために貯金していたり。
自分が価値を感じる物事に、多くの対価を支払う。
趣味以外のことでも、子どもの有無や、学費や住宅ローン、生命保険、株やFXなど、消費先や投資先はさまざま、その比重もさまざまなのは、わかっているつもりです。

でも、毎日ルーティンの仕事に疲れ、擦れた頭で思いました。
日常的にこの価格のランチができる、この人たちの年収高いんだろうな
質の高い生活してるんだろうなと。

 

 

話は変わって、家の近所にファミリーマートがあります。

コンビニ、楽しくて好きなんですが、やっぱりスーパーの安さには敵わない。
周知のとおり、節約の観点からみるとちょっと悩ましい存在なんです。

今日はちょっと自炊する元気ないなとか、
どうしてもアイスが食べたくなっちゃったんだけど徒歩10分のスーパーまで歩く気力はないんだとか。
そうやって意識が低くなってるときに、近所のファミマに行きます。

だから極端にいえばコンビニ利用時の私には、ぞんざいに対応してほしい。
学生バイトの、まじでバイトだるいわ~の適当なテンションが気楽なんです。
レシートいるか確認めんどいし渡さなくていっか、みたいな。
そういうので全然いいんです。

でも、そこの店員さん達、みんな優しいんですよ。
こんなに頑張れない私にそんな笑顔を向けてくれてありがとうございます・・・と思ってしまう。
ちょっと申し訳なささえ感じる。(病気かな?)

たまにオーナーさんなのか、めちゃくちゃ仕事できるビジネスパーソンみたいな方がレジ対応していることがある。温めますか?って聞いてくれる。
正直今まで私の中にあったコンビニ店員像に当てはまらない。
なんでこの人はコンビニで働いてるんだろうって思いました。

この時に、あ、私これ無意識に職業の階級分けしてるなと気づきました。

しっかりスーツ着て仕事の休憩中に高いランチ食べてる人がいて、
その上流の人達のために調理をする自分たちの差。
じゃあコンビニで働く人は?

 

転職を本格的に意識するようになってから、外で仕事を見つけるたびに

あの人はどうしてあの職に就いたんだろう
正社員だろうか、それとも契約か派遣か、アルバイトだろうか
どんな事情があってその雇用形態を選んでいるんだろうか
世の中の人たちはどのくらい自分の仕事に納得感をもっているんだろうか

ということばかり考えるようになりました。

仕事は、生活のなかで膨大な時間を占めます。
もちろん最近はパラレルワーカーや週休3日制度、残業時間の削減、フリーランス、副業などが多くの人にとって現実的なものになって、今までの働き方から違うものに変化してきている。

でも依然として週5日、8時間以上フルタイムで勤務する人はたくさんいる。
その人たちは、いま自分のしている仕事を、どのくらい気に入ってますか?

 

無意識のうちに、この職業は上でこれは下、と考えに至った自分を反省しました。

きっと圧倒的に知識が少なく、想像力が乏しい。

職種に上下階級は存在しません。

 

 

 

2020.2.15 追記

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ベストセラーとなったアドラー哲学書「嫌われる勇気」の続編、
「幸せになる勇気」を読んでいます。
そのなかで、ちょうどタイムリーに仕事について言及している箇所がありました。

本書は前編から引き続き、哲人と青年がひたすら会話形式でアドラー心理学を紐解いていくのですが、人が分業(仕事の役割分担)をすることについて語られる章において、いかなる職業にも貴賎はない、とまとめてあります。

貴賎とは、weblio辞書によると

 身分の高い人と低い人。貴いことと卑しいこと。 「職業に-なし」

とされています。
ネット上では「職業に貴賎はないなんてのは綺麗ごとだ、建前だ」などの主張も見受けられました。

しかしアドラー学を語る哲人は、
“人間の価値は、「どんな仕事に従事するか」によって決まるのではない。
その仕事に「どのような態度で取り組むか」によって決まる”
と言い切ります。

そもそもの話、人間の価値なんて言うのはモラル的に無しと考えるのが一般論であり、建前だと思います。仮に人間の価値をはかるのだとすれば、その尺度は人によって異なるし、どこで納得できるのかも様々です。


私がアドラーの教えに沿って、この問題を納得しようとするのなら、
「自身が仕事に取り組む態度」の自己評価が低いために、
職種の優劣ばかり意識するようになった、と言えるかもしれない。どうだろう。

自分の働く態度について自分で満足できていなければ、私は私の価値を低く感じる。
世の中の仕組みについて理解を深めるのもそうだけど、なんか結局は私の自己肯定感の無さが原因な気もする。

自分の価値を感じられないと、やっぱり世の中のことも悪くとらえてしまうのね。
なんか、つくづく残念な生き物だなあと思ってしまいました。